ごみばこ

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S.C.Pパロの人外フェルと人間フォンの話 前

アイテム名:SCP-119

オブジェクトクラス:Euclid

特別収容プロトコル:SCP-119は植物型を使用していない、全て無機質な家具と浴槽が備わった2部屋の独房に収容されています。
自由に施設内を歩く事を許されており、メイン食堂で食事をします。
地面とあらゆる接触と外出は許されていません。
どのような状況においても他SCPとの接触は許されていません。決してSCP-119に暴力を振るってはいけません。彼もまた暴力を望んでいません。

SCP-119は現在サイト-34に収容されています。


説明:SCP-119はロシア人のような色素の薄い肌をした20代後半~30代前半の男性のような姿をしており、身長188cm、体重84kgで銀髪に青い瞳をしています。
両腕、脊柱、両肩肩甲骨は未知の金属に入れ替わっているように見えます。
指摘しても目に止まるだけで、どのように、何故、いつ頃、入れ替わったものなのか分からず、気が付いたら持っていたとだけ話します。
背中に6箇所の縦傷、首には1周する程度の傷があり、SCP-119にそれらについて言及すると口を閉ざし話すのを拒みます。
定期的に飲食をしなければなりませんが、植物由来のものの影響を受けるため完全に肉食です。


SCP-119は〝ルシフェル〟を自称し、通常は誰に対しても親切に話しますが、その口調は冷たく、抑揚が無く、機械的だと言われます。
とても有能で、あらゆる事柄を把握しており、要請をすれば職員を手伝います。
はるか昔のことから現在まで起きた出来事を詳細に説明する事が出来て、滅んだものも含め世界中で使われている多種多様な言語を話すことが出来ます。
映像記憶を公言しており、3分で100の辞書、機密文書を一言一句まで覚えていました。
しかし、〝空〟にまつわる情報は頑なに話そうとはしません。
身体的能力に関してもテストとしてSCP-682と対面させた際に、SCP-119は僅か2分で相手を完全沈黙させ、SCP-682の再生能力を著しく低下させました。


SCP-119の存在は本人の意思に関わらず全ての土やそれらに該当するものに影響し、10m範囲内(但しSCP-119は範囲を広げることが出来る)の植物や土で成長する生命に対して死をもたらします。
またその土地は全ての作物が育つことは永久に無くなり、現在においても改善策は見つかっていません。
何度か作物の種を要求されたので渡しましたが、全て失敗に終わっています。(そもそも種に触れただけで腐敗してしまうので、植える作業にすらいけていませんが。)
この為SCP-119は自分の意思で外出をしなくなり、作物は職員に頼む形で育てられました。

以下は今まで育てた作物である。

トマト・・・1鉢
珈琲・・・5m四方(サイト-34外の中庭)
赤いカーネーション・・・2m四方(上記に同じ)
紫のアネモネ・・・同上






パタン、とクリップボードを閉じたサンダルフォンは自然と溜め息が出てくる。
無事に財団の試験を突破して、晴れて職員の一員となった自分の元に来たのはまさかのEuclidクラスの管理だった。
SCP財団で危険性の高いものからsafe、Euclid、keterと分類され、常に人間に対して極度の敵対行動を取り、隙あらば職員を殺して脱走しようとするketer、性質が充分に解明されておらず予測不能な一方でketer程の脅威はないEuclid、完璧で永続的に収容が出来ている、きちんと管理されていれば異常が出ないsafeの3つだ。
初めてだからsafeくらいの、出来れば危険性が低いものがいいなという希望は打ち砕かれた。
聞けばこの〝ルシフェル〟というSCPは財団が出来た当時からいるらしく、一番の古株だそうだ。
そんな古いSCPの担当を新人に任せるなんて本当にナンセンス極まりない。俺が身寄りがないからいつ死んでもいいように危険なやつに配置したんだろうなとマイナスに考えて、自嘲気味に笑う。
とにかく当たり障りのない付き合いをしていけば視界にも入らないだろうし、長生きは出来るだろう。
そう独りごちて今日から世話になるサイト-34の入口の扉を慎重に開けた。
誰もいないのか施設内は静かだった。書類には確か10人程いた気もするのだが。
ざっと室内を見渡せば壁や床は白を基調とした色合いで、配置された家具は書類にあったように全て無機質素材だが、カラーリングは淡い青を縁取られた物で統一されている。シンプルながらにセンスはいい。
選んだのはあのルシフェルだろうか?
とてもじゃないがあのルシファー博士が選んだとは到底思えない。
だらし無さの塊のルシファーの行動を思い出しながら配置書に書かれた番号の席に向かうと、そこには既に荷物が置かれていた。

「...これも素材を変えてるのか」

思わず洩れた独り言が響いて慌てて口を噤む。
こんな新人丸出しの感想を誰かに聞かれでもしたらとんでもなく恥だ。深呼吸をし、気持ちを落ち着けて箱の中から文具用品やファイルを引き出しにしまい、ネームプレートをデスクの端に置いて、職員カードを左胸のポケットに挟む。
真新しいデスクと置かれた新品のPCや用具が全て自分に揃えられた物だ。ネットの情報だけでしか見た事が無かった財団の一員になれたんだと実感すると感慨深くなる。
取り敢えずは施設内の把握をしておこう。
よし、と気合いを入れて端末のマップを開いて振り向くと、

「君は新しい職員かな」

視界いっぱいに広がる端正な顔立ちに思わず悲鳴が出かかる。
癖ひとつない流れるような銀髪に青い瞳。間違いない、SCP-119〝ルシフェル〟だ。
黒のタートルネックに濃紺のデニム、手には黒の手袋をしていた。
男にしてはちょっと身長の足りないサンダルフォンの目の前に顔が見えるのは、このルシフェルが腰を屈めてるのだと分かった。

「...ああ、まあ」
「そうか。私の事は書類で見ているだろうが、ルシフェルと言う。宜しく」

ふわりと口角を緩く上げて柔らかく笑うルシフェルは危険性の高いSCPだとは思えない。
おまけに近いせいでなんか良い匂いがする。
男でも惚れてしまいそうな美形っぷりに胸がざわついていると、ルシフェルサンダルフォンの手にしてる端末を覗き込んだ。

「成程、ここの中の地図か」
「...ああ、着任したのは今日だから、仕事になる前に把握しておこうかと思って」
「なら私が案内しよう。まだ他の職員は脱走したSCPの対処に追われているからね」

脱走。
サイトはエリアと違い、公に知られてるSCPが多く収容されている場所で、逃げ出す程敵対性が強いものはいないと思っていたのに。
周りが困っていただろうに、俺ときたらルシフェルの書類の中身に尻込みして来るのが遅れた。新人のくせに、役にも立たない。
視線を床に落とすと、ルシフェルはまるでそのことが分かっているのか「案ずることはない」と慰めた。

「SCP-1048は分かるかい?」
「えぇっと...確かテディベアだったような...」
「そうだ」

頷いたルシフェルサンダルフォンを真っ直ぐ見つめて嬉しそうに目を細めた。
曖昧な言葉でしか答えてないのに。
何でそんな親が子を褒めるような目で見てくるんだ。
居心地が悪くなって、しかも混乱を極めてる頭をフル回転させて1048が何だったかを思い出そうとする。最近safeからketerに引き上げられたヤツだった気がした。
類似してる優しい心を持ったクマが不憫だと感じたのだ。
だから、そう、確か1048は、

「...ビルダーベア」

愛らしい茶色のテディベア。
人間に対して友好的な態度を示していたあのクマはとんでもなくイカれたヤツだ。
手を振ったり、足にしがみついたり、ダンスしたり。
人間に敵対心は無いと見せておきながら、影では歪で気味の悪い同じクマを3体作っていた。
全身が人間の耳で出来たもの、人間の胎児で出来たもの、錆びた金属スクラップで出来たものだ。
いずれも本体らしきビルダーベアとは違って、人間への殺意を剥き出しにしたキリングマシーン。

「かなり前にサイト-24で脱走して、そのアレが作ったものも同時に消えていた。...だが、今朝方監視カメラに映っていたそうだ」
「サイト-24はあの時に人がかなり死んで...、あ、だからか」
「その通り、人数が足りなくてね。ここの職員に頼んできたんだ」

君は覚えがいいね、と言って顔を近付けてじっと見てくるルシフェルが心臓に悪い。
と言うか近い...近すぎやしないか?触られそうだと思っていると、ルシフェルはまるで心が読めるのか「残念だが、私が君に触れる事は出来ない」とわざわざ伝えてきた。
そんな事書類で見て知ってる。
何を言っているんだと睨み付けてやれば、ルシフェルは意に介していないのか極々自然な動作で「案内をしよう」と促してきた。
いちいち仕草が洗練されていて嫌味のひとつでも言いたくなったが、言葉が出かかってから心の歪んだ自分に気付いて心底嫌気がさす。 
劣等感にも近いそれはすぐに払拭出来るはずもなく、サンダルフォンは鬱屈した想いで胃がムカムカしつつも歩いていく。
端末を手に内部を案内するルシフェルはここの職員よりも丁寧だった。
分かりやすく、覚えやすい。
1時間ほどで終わってメインフロアに戻ると、ルシフェルに短くお礼を言う。

「礼には及ばない。私もいい散歩になった」

緩やかに笑みをたたえたルシフェルは、左胸の職員カードに視線を移すとひとつ頷いた。

サンダルフォン。...いい名前だ」
「...どうも」
「君とこれから仕事が出来るのを楽しみにしているよ」

新人に気遣う上司のような優しさを感じられる言葉なのにどこか無機質で、感情が見られない。
予め用意されていた返答を発してるだけにも見えて、サンダルフォンはこれはルシフェルというSCP-119なのだと思い出した。

ここでの仕事は世界中で集められたSCPの情報をまとめ、日々更新される対象の取り扱い事項を差し替える。漏れてはいけない機密情報は検閲をし、全てを塗り潰す。
比較的友好的なルシフェルも例外ではなく、毎日観察して前日と何か違う事があれば直ぐ様報告書をあげなければならない。
起床時間が1分違う、食事方法を変えた、そんな些細な事でも財団にとっては貴重な変化なのだ。
着任してから1週間。
サンダルフォンは元々の勉強家で努力家の為、不慣れな動きをしていたのは初日だけだった。

「新人とは思えない働きだよな」
「それはどうも。俺でも出来るのだから君達もやれるだろ?」
「でたよサンダルフォンの皮肉と卑屈のハンバーガー」

ゲラゲラと笑う職員を朝からふざけた奴だと冷めた目で見据えていると、入口が急にざわつき始めた。
一体何事かと視線を向ければ、顔色が真っ青になった職員の1人。押さえている腕から血が滴り落ちていて大きな血溜まりを作っているのはひと目で見て異常事態だと断言出来る。

「またか...」

駆け寄る医療班に混じって見に行けば近くにいた職員が呆れたような、同情のような嘆きが聞こえ、サンダルフォンは何事か問うてみた。

「SCP-119に攻撃でもしたんだろうよ」
「...それが何か問題なのか?」
「アイツに何か攻撃をすれば全部跳ね返ってくる。それも何倍にもなってだ。おまけにSCP-119には傷1つ付かない、理不尽だろ」
「渡された資料にはそんなもの書いてなかったが?」
「当たり前だろ、検閲されてる部分だからな。そこだけ省かれて渡されたんだろうよ」

さらりと言われた内容に絶句する。検閲された部分の書類は渡されていない事実。
外部への漏れを恐れて新人には渡さなかったのかもしれないが、これでは本当に何かが起きるのを予兆しているのではないか。
気にするなよ、と肩を叩いてきた同僚に返す言葉も出ずに流れる血を呆然と見続けていた。

午後になり、一通りの作業を終えたサンダルフォンは施設内に設置されたドリンクサーバーから抽出された珈琲を飲んでいた。
紙はルシフェルの影響を受けてしまう為、ステンレス製のカップに入れて飲まなければならなかった。
色んな種類の飲料が飲める機械は便利だが、所詮はインスタント。
味の深みもコクも薄すぎるソレに、サンダルフォンは溜め息が出てくる。

「...こんなもの珈琲とは言えないな...」

あんまりな味に文句が出てくるが、本来なら飲めない物なのだから贅沢は言えない。
炒って、挽いて、蒸らして。
時間をかけてゆっくりと抽出すれば焙煎された香りがふんわりと広がる。自宅にいた時に日課のように行っていたことは、ここでは出来ない。
懐かしい記憶に浸っていると、静かな靴音が聞こえてきた。

サンダルフォン
「...アンタか」
「今日も変わりはないかな」

穏やかな笑みを浮かべたルシフェルサンダルフォンの傍に来ると手に持っているカップの中身を覗く。

「それは...珈琲か」
「ああ。まあ、珈琲とは言えない代物だがな。豆から淹れる本物の珈琲と比べたらこんなものは珈琲とは言えないさ」

鼻で笑ってカップを口につけるとルシフェルは不思議そうにしている。小首を傾げて考える仕草は成人している男性がやるにしてはあざとい気もするが、この男がやっても何ら違和感が無いのは可笑しく思える。

「なんだアンタ、珈琲を飲んだことがないのか?」
「ここのはあるが...君の言っている本物の珈琲は生憎知らないんだ」

普段、殆ど変わらない顔が僅かに動く。無機質な声音はそのままなのに、表情だけは少しだけ悲しそうだった。よく見なければ分からないくらいのレベルだが。

「......、道具があれば淹れられるが無いからな」

まともにルシフェルを見られない。
朝の出来事がサンダルフォンの頭からこびり付いて離れないからだ。
死に掛けた男、流れ落ちる血と地面に広がる赤い水溜まり。
そうだ。人に危害を加える事はゼロではない。
ルシフェルは人ではなく、人の形をした異常現象なのだと。

「もし」

かけられた言葉で反射的に見上げればこちらを見下ろすルシフェルと視線がかち合う。

「道具があれば本物の珈琲というものを味わえるだろうか」
「何...言ってるんだ...。そもそも外部からの物品の持ち込みは厳禁とされているだろ?」
「ああ。だが友に頼んでみよう。許可が下りれば君と珈琲が飲める」

そう話すルシフェルは心なしか嬉しそうに見えた。
機械のような声も弾んでいて、弧を描いた口元も穏やかに。
何故そんなに喜ぶのだと考える。
たかが珈琲だろうと出かかった言葉を飲み込んで、ルシフェルを否定せずに受け入れた。
これは財団に報告しなくてはいけない変化なのだから下手に刺激するなと思う一方で、心を凪いでくれる優しい声をずっと聞いていたいような気持ちがせめぎ合っていた。

「私に珈琲を淹れてくれないか?サンダルフォン
「...構わない、器具があればいくらでも淹れてやる」

不遜すぎたかと後悔が押し寄せ、恐る恐る窺えば彼は願いを聞き入れてくれたと目を細めていた。
慈愛を含めた蒼に気恥しくなって、誤魔化す様にどんな味が好みなのか問えば「君が淹れたものなら何でも美味しいだろう」と、更に心をむず痒くさせられ、顔がますます熱くなった。
今なら聞けるだろうか。
朝に見たルシフェルが危害を加えた理由。機嫌を損ねて同じ末路を辿らないだろうか。
不安を胸にルシフェルの名を呼べば、彼は応じてサンダルフォンを見下ろす。

「朝のを...見たんだ」
「...そうか。彼には悪い事をした」
「あれは貴方が意図的にやったのか?」

悪意を持っていたのか?と問いを色に乗せてじっと見れば、ルシフェルは悲しげに眉を寄せて首を横に振る。

「採血をしようとしただけだ」
「......」
「聞いたか見たか、どちらかは分からないが私に傷を付ける事は出来ないのは知っているね?」
「...ああ」
「それは私の意思に関わらず発動する。...あの時は採血用の注射の針の痛みが彼に反射しただけなんだ」

同情にも似た声で呟くルシフェルに返す言葉が無い。
あの職員はただ仕事をしようとしただけで、サンダルフォンと同じく隠された真実の部分を知らされていなかっただけの哀れな人間。

「私は止めるよう促したのだが、彼は注射器1本とて凶器になると頑なに渡すのを拒んだ」
「その後に職員が刺したら起こった、と?」
「ああ、それで相違ない。あれからどうなったかは分からないが」

淡々と語るルシフェルは職員への気遣いは皆無に等しい。
情報を知らなかったにせよ、制止したにも関わらず強行に及んだ職員にも非はある。
だが、簡単に廃棄される人材であるといったニュアンスが安易に含まれている気がして、サンダルフォンは何故だか息苦しく感じた。
クラスの低い職員は捨て駒かもしれない。死刑囚や身寄りのない、社会的地位の低い人が職員になってるのもそれなりにいる。
任される仕事は死と隣り合わせのものか雑用ばかり。
それでも必死に日々を生きていて、誰かの役に立ちたいと仕事をしているというのに。
暗く、心が、沈む。
顔が強張るサンダルフォンに声がかけられる。

「大丈夫か?」
「...え、あ...」
「顔色が優れないようだが…」

暗く表情のまま俯く青年にルシフェルは痛ましげに眉を顰めた。
カップを強く握る手、固い表情で中の黒い液体をじっと見つめる目はまるで何かに絶望しているような、負の感情が見られる。

「私は...私には人の死を悲しむようには出来ていない」
「...分かってる」
「すまない。せめて彼が無事でいてくれることを願おう」

サンダルフォンに触れようとしてハッと気付くと、その手を所在なさげにさ迷わせたのちに握り締めた。
しかし、このまま離れるのも駄目だと思い、彼の心が落ち着くまで隣に座りポツポツと雑談をする事にした。




その晩、Dクラス職員は全身が針で刺したような穴が空いた状態寝ているのを発見される。
既に息はしていなかった。

毎晩ヤる事やってるのに今更あーんが恥ずかしいの?

物資や食品等の補充があると街で数日拘束となった団員達は、この自由時間を使って各々好きな事をしていた。酒場で酒を楽しんだり、買い物をしたり、と。
ルシフェルは顕現した後、特異点の申し出により団員の1人になった。...とは言っても、元々俗世とは程遠い存在だった為に自由時間と言われても街には行かず、船内で静かに過ごしていた。
あれだけ毎日賑やかでいるグランサイファーも今は人が少なく、ひっそりとしている。
用意された自室で読書をしていると、口寂しさを感じてパタリと本を閉じた。珈琲の時間だ。
コツ、コツと靴音を鳴らしながら厨房へと入れば、同じくおやつの時間らしい特異点とルリアが座って飲食をしていた。
テーブルの上には果実を搾ったフルーティーなジュースと、可愛らしいデザインの施された皿の上に置かれたイチゴのケーキと、もう1つはビスケットが乗せられたチョコレートのケーキ。
美味しそうとはしゃぎながら食べている様子は微笑ましく、ルシフェルの胸の奥がじんわりとほのかな熱を灯す。子を見守る様な眼差しは進化を見守ってきた時よりもずっと近く、ずっと温かい。
この笑顔を命が許す限り守っていこうと、己自身に頷いていると、ケーキを頬張る特異点にルリアが「一口くださいっ」と目を輝かせていた。見た目以上に大食いで食いしん坊の彼女は、身を乗り出して特異点の皿を狙っている。

「えー、一口だけだよ?」
「はいっ」

仕方ないなぁ、とフォークに一口分を刺してルリアの口元に運ぶと、彼女は「あーん」と嬉しそうに口を開いた。代わりに一口頂戴、私のが無くなっちゃいますと相変わらずの微笑ましいやり取りをしているが、それよりも気になる部分がある。

「...、特異点
「あ、ルシフェルさん」

ルシフェルに話し掛けられてもルリアに餌付けする形でケーキを運んでいる特異点
振り向いてもその手は止めずに、自分のおやつをフォークで小さく切っていく。

「それは、一体何をしているのだろうか」

いつもの淡々とした声音で問い掛けるルシフェルは表情こそ無機質だが、興味津々といった様子で特異点とルリアの2人をキョロキョロと見比べている。その仕草がなんだか珍しい物を見た子供のようで、特異点はくすりと笑う。

「ほら、あーんだよ。やった事ない?」
「...、あーん...?」

首を傾げて特異点の言葉をゆっくり咀嚼するも、意味がきちんと理解出来ずに顎に手を当てて黙り込む。
本当に分からないのだろう。神妙な顔をしている裏では最高傑作と言われた頭をフル回転させて記憶している文献を漁っているに違いない。
どうしたものかと特異点も考えていると、ルリアが食べ終わったらしくフォークを皿の上にカチャリと置いた。

「えっと...大好きな人にやる愛情表現です!」
「ええっ...」

あまりに大雑把な回答に思わず特異点は声が出てしまう。あながち間違ってはいないが、遠からずとも近からず。もう少し付け足しておこうかと口を開けば「成程。大体は把握した」と大きく頷き、ルリアに礼を言うルシフェルがいた。
大雑把すぎない?それで本当に分かった?
色々と語弊がある気がしたが、既に遠くなった背中を見つめながら特異点は「まあ...どうせやる相手なんて1人だろうし、いっか」と被害者になるであろう、安寧と呼ばれるもう1人の天司に合掌した。



コンコン、と扉をノックする音にサンダルフォンは世界の珈琲名鑑と書かれた本を閉じると、サイドテーブルに置かれた時計を見て顔を綻ばせた。
日課の珈琲は交互に淹れると決まり事を設けた。本日はルシフェルが担当している。
本当は全部サンダルフォンがやりたかったのだが、私にも淹れさせて貰えないだろうか?と困った顔で微笑まれては妥協するしかなかった。
椅子を降りて扉の前まで来るとキュッと唇を結んで顔を引き締める。
仮にもつい先日まで天司長を任されていた身。それが浮かれた様子でルシフェルの前にいるとあっては幻滅されるかもしれないからと思っているからだ。
正直、ルシフェルサンダルフォンが取り繕っているのは知っているものの、頑張っているのが大変愛らしいとの事で伝えてないらしい。(特異点談)

扉を開ければやはりそこに立っていたのはルシフェルで、手には二人分のカップとサーバー、そして何やら紙の袋が乗ったトレーを持っていた。

サンダルフォン。入ってもいいかな?」
「はい、勿論。...それは?」

小さな木製のテーブルの上に置かれたトレー。カップに注がれる焙煎された香りにほう、と息を吐きつつ気になるのは指を差した先の紙の袋。ああ、とルシフェルは思い出しながら「街で買ってきた」と答える。

「街?ひとりで?」
「ああ。たまには菓子を付け合わせるのも悪くないかと思ってね」
「それはそうですが...言って下されば同行しましたのに」
「それではサプライズにならない。君の驚いた顔が見たかったんだ」
「ん゛んっ」

悪戯が成功したような顔で笑うルシフェルに胸が鷲掴みにされる気分になる。心臓に悪い。痙攣する喉を押さえつけ、慌てて咳払いすると若干裏返った声で「悪趣味です」とだけ返す。研究所にいた時よりも遥かに人らしい感情を持ち合わせているルシフェルはとても好ましいが、同時に不満でもある。
突拍子にもない事でサンダルフォンを喜ばそうとしたり驚かそうとしたりするからだ。
動悸が酷い、顔も熱い。些か緊張気味に珈琲を注げば、ルシフェルは袋から皿に菓子を広げていた。
白と黒の二色のクッキーはほんのり甘い香りがしており、確かにブラックの珈琲と合いそうだ。
簡単な準備を終えれば、見た目もいつもと比べてちょっと華やかになった珈琲タイムの始まりとなった。
カップに口を付けて一口含めば、酸味と苦味が混じって丁度いい味わいになり、焙煎されたコクの深みが喉をゆっくりと通り抜けていく。
落ち着く。この時間だけは何物にも変え難い大切な一瞬。
ルシフェルの淹れてくれた珈琲をじっくりと味わって飲んでいると、彼はこちらを優しく見つめていた。春の陽気、花が芽吹く瞬間の優しい暖かさが込められた笑みはサンダルフォンの心を落ち着かなくさせる。
穏やかな瞳は揺蕩う海の様に、弧を描く口元は慈愛を冠して、癖のない銀髪は夜に瞬く星々の様に煌めいている。何たる眉目秀麗な天司なのだろうか。
至高の御方が復活して本当に良かった。ひとりごちていると、酷く優しい声音で「サンダルフォン」と呼ばれた。

「はい」

名前ひとつ呼ばれるだけで天にも登る気持ちになる。

「あーん」
「......、...?」
サンダルフォン、あーん」

白のバニラクッキーを1つ手にしたルシフェルサンダルフォンの口元へと差し出されている。
一体何なのだろうか。
これはまたていの良い悪夢か。
訳が分からずカップを持った状態で呆然としているサンダルフォンルシフェルはふむ、と考える。

「...君の口では大きすぎて入らないようだな」
「...いえ、その...」
「案ずる事はない。小さくしよう」

パキリ。クッキーを半分に割ると再度サンダルフォンの口元へと近付けてくるルシフェル
そうじゃない。そうじゃないんだ。
珈琲を飲んでいるだけだというのにどう見てもおかしい。
ルシフェル自身に他意はないのか、一切の曇りのない瞳でサンダルフォンを穏やかに見ている。悪い冗談にしか思えないそれに、浮かぶ犯人は特異点と蒼の少女の2人。
きっとまたいらない入れ知恵をされたのだろう。サンダルフォンはプルプル震える手を叱咤し、なんとかカップをソーサーの上に戻した。

「何故それをしなければならないんだ」
「教えて貰ったのだ。これは親しい者へと行う愛情表現だと」

先程のアンニュイな気持ちを返して欲しい、サンダルフォンは泣きたくなった。嬉しそうに、瞳を砂糖菓子の様に甘く蕩けさせたルシフェルはクッキーを唇に近付けてくる。

ルシフェル...さま、その...俺はそういった事は出来ません」
「何故?」

何故。まさかそんな反応が来るとは思わないサンダルフォンは目を丸くするしかない。
いくら愛情表現だからとは言ってもあーんなど恥ずかしくて、過去の無垢な時なら兎も角、今の自分では到底出来ない。
それに自分みたいな罪人がそんな事をするなど烏滸がましいし、公正明大な御方を誑かしたとして四大天司に恨まれるに違いない。
敬愛する天司長ルシフェルにその趣旨を噛み砕いて噛み砕いて、それこそパンくず1つくらいまで噛み砕いてオブラートに4重で包んでから伝えると、フッと彼の周りの空気が淀み始めた。

「そうか...やはり君は私を許しはしないようだな...」

そっと伏せた目は憂いを帯び、睫毛は切なげに揺れる。雨に降られたが如くの悲しげな表情はあまりにも痛々しい。

「二千年間の君の劣等感を思えば、私を好くなどありはしないのにな...」

昼間なのに辺りが暗くなる。
エーテルがこれでもかと言わんばかりに乱れに乱れて、ついでにサンダルフォンの頭も混乱を極める。
どうしてそうなる。
そんな話を持ち出すな、やめろ下さい。己の中でそれなりに吹っ切った過去をほじくり返されて心が死にそうだ。
本当にずるい。そういう所だぞルシフェル
大体特異点達があーんを愛情表現等と言うからこんな事になったんだ。
サンダルフォンは出来うる限りの文句を脳内にいる特異点とルリアにぶつけていく。

「...サンダルフォン

出口を探す迷い子の様な声音。
その瞬間サンダルフォンは勢いよく立ち上がると「ああもう!!」と頭を抱えて叫ぶ。

「分かった、分かりましたよ!やりますよ!!貴方からのを食べればいいのでしょう?!」

やけくそ気味にガタガタと椅子を動かしてルシフェルの横に並べると口を開いた。
生まれて二千年弱。天司長元代理サンダルフォン、初めてのあーんだ。羞恥に耐えているのか、とても甘い雰囲気を纏えるわけでもなし、表情も眉間に皺を寄せていて、まるで戦闘中だ。ここにベリアルがいれば「サンディ、最高にブス顔だな」とシニカルな笑みを浮かべて肩を叩いてきただろう。
恥ずかしかろうが何だろうが、とにかくルシフェルの目的を終わらせて満足させればいい。
般若の顔をしているサンダルフォンは10人中10人が怖いと言うだろう。だがルシフェルは意に介さず微笑んでいる。惚れた弱みなのか、我が子可愛いの親馬鹿なのか。あるいはどちらもかもしれないが。
半分に割れたクッキーが開いた口に乗せられると、サンダルフォンは緩慢な動作で咀嚼した。
ほのかな甘味が舌に広がる。
噛めばほろほろと崩れるクッキーの甘さは、ルシフェルの自分に対する態度にも似ていて下腹部が熱くなる。
穴が開くほど見つめられては食べづらいにも程があるのに、一刻も早く甘ったるい空気を何とかしたくて一生懸命顎を動かす。
ゴクリ。漸く飲み込んだサンダルフォンは恥ずかしさを打ち消そうと珈琲を一口飲んだ。

「美味しかったかい?」
「...はい...」
「それは良かった」

嬉しそうに目を細めるルシフェルもまた、優雅な動作で珈琲を口にする。ああ、やっと終わった。
安堵の息を漏らすと、黒色のクッキーを1つ手にする。

「それでは、君もやってくれるかな?」

何て?

「え、ええっと...言葉の意味がよく分かりませんが…」
「私も君に食べさせて貰いたい」

それを、とサンダルフォンの持っているクッキーを指差す。
今度こそ心が砕け散りそうだ。
只でさえ死にたくなる程の羞恥を我慢して食べたというのに、こちらもやれと言う。悪魔か?堕天司か?
ルシフェル本人はそんな気はないし、至って大真面目なのが余計にタチが悪い。
本気の本気で断りたいのに、断れば待ってるのは文字通りのお先真っ暗。暗雲立ち込め暴風が吹いて木々を薙ぎ倒す。目の前の天災を止めるには己の恥を捨てればいい。ルシフェルに食べさせる。ただそれだけだ。

「...分かりました」

ぷるぷる震える手でルシフェルの口元へと近付ける。
あとちょっとで食べる距離という所で、突如手首を掴まれた。
一体何だと思う前にルシフェルサンダルフォンの指ごとクッキーを口の中に入れる。
ぬるりとした感触に全身の肌が粟立つ。ひっ、と引き攣る声を無視してルシフェルは指を舐め上げた。
ゆっくりと下から上にと向かう舌先。愛撫されているような感覚に毎夜行っている2人だけの行為を思い出させる。
浅ましく反応する体に嫌気がさすのに、彼から与えられる熱がどうしようもなく堪らない。
これ以上されたら真昼間なのに止まらなくなってしまいそうになる。緊張を隠しきれない声で制止をすれば、抵抗は許さないとばかりに濃い蒼に射抜かれた。
引っ込める事も許されず、ただただルシフェルのされるがままを受け入れ数分。しゃぶられ、舐められ、散々嬲られたあと、一度甘噛みをされて解放された指は唾液でふやけていた。

「ご馳走様」

満足げに微笑むルシフェルに上手く回らない思考でサンダルフォンは頷いた。
この方が満足されたのなら我慢した甲斐があった。熱い頬に目を瞑り、肩を震わせて役に立てた達成感に浸っていると、ルシフェルはおもむろにクッキーを掴んだ。
そして、

「さあ、サンダルフォン。もう一度行おうか」

ルシサン小話(ただのえろ

軋む音を立てて揺れる寝台。その上で一糸纏わぬ姿でサンダルフォンは声を押し殺していた。
足の間には敬愛する銀の天司がズボンを履いただけの姿で、獣のような息遣いをしながら腰を振っている。後孔に突き入れられた剛直はその身を焼き尽くされそうなほど熱く、腹部が圧迫されるほど太かった。
息の合間に名を呼ばれ、霞む視界のまま見上げれば愛する人が涼やかな蒼い瞳に劣情の色を宿して見下ろしている。
「...気持ち...いいかい...っ?」
粘着質な水音が結合部分から漏れ、鼓膜を刺激していく。
腰を打ち付ける音やそれらの生々しさが今、2人がしている事の淫靡さを醸し出し、サンダルフォンははふはふと呼吸をしながらルシフェルを見つめ返す。
「は、...い」
息も絶え絶えに返した言葉はあまりにも短く、稚拙なものだが、ルシフェルはその二文字に全てを理解したのか慈愛を込めて愛し子を見下ろす。
室内はいくらか涼しいが甘くも激しい情事に肩や頭の中に汗が滲む。
篭もる熱気には淫らな匂い香が混じっていて内に眠る獣が理性を食い破りそうになる。サンダルフォンを、愛する子を本能のままに貪りたい心を抑えて視線の下にいる肢体を見れば、手が白くなるまで握り締めたシーツ、肩で息をしている姿は快感を落ち着かせようとしているにも見えた。
上気した頬は普段の凛とした彼とは違い、少し幼い。
こめかみから顎を伝って流れる汗が、紅い花弁を散らした白い肌に落ちて雫が広がる様はサンダルフォンが自分のものに染まっていく感覚に陥る。
それは相手も同じなのか、汗で湿った肌に指を這わせて熱に浮かされた瞳で濡れた指を見つめ、音を立てて舐めた。
ルシフェルから与えられた物を体内取り込もうとする従順な姿。中に放った精ですら掻き出したくないとごねた事もあった。
星晶獣だから人の子のように腹を下す事も無ければ、男性体故に子を孕む事もない。
それでもサンダルフォンは敬愛する人からの贈り物を無駄にはしたくないのだと瞳を揺らして切に訴えた。
彼に甘いルシフェルは止める事はせずに好きにさせていたのだが。
扇情的な光景に眩暈がしそうだ。
我が子の淫らな仕草に無意識の内に腹の奥が熱くなり、サンダルフォンの胎内に埋めた剛直が更に熱を増す。
微かな甘い声をあげたサンダルフォンは緩やかに腰を揺らすと、自分の薄い腹の上に手を置いて蕩けた顔で微笑んだ。
「あなたの熱を感じます」
もっと欲しいと願うのは傲慢だろうか。いや、手を伸ばせば必ずルシフェルがその手を取ってくれると信じている。
安っぽいチープな言葉では伝えきれない想いを込めて名を呼べばルシフェルは呼び返してくれた。
歓喜に打ち震える心はこのまま消えてしまっても構わないとさえ思えた。
煌めく蒼い瞳に全身を射抜かれ、この人に全てを曝け出し、そして余すこと無く愛を注がれる。
「髪の毛1本から、血の一滴まで...俺はあなたのものです」
だからどうか、俺にも貴方を下さい。
願いを込めてシーツを掴んでいた手を離して、その腕を伸ばせば溶けて、混ざって、一つになってしまいそうな一途な愛おしさに惹かれ、ルシフェルは上体を倒して赤い舌が覗く唇に吸い付くと、そこは僅かに塩の味がした。

if軸マキエ(零式)

夕方、人のいない教室の窓側の席。開けた窓からそよそよと流れ込む春の風を受けながらエースは1人読書を楽しんでいた。
マザーに頼んで理事長に掛け合って貰ったどうしても読みたかった魔導書。人気の著書が書いたその本は書店でも売り切れが続出してしまい、エースもなかなか買えないでいた。
そんな時にマザーから何かないかと問われたのを幸いに、エースは生涯で初めて我が儘を言った。
言いづらそうに、でも必死にお願いをするエースは今まで見た事がない我が子の表情で。
一生懸命お願い事をするエースにマザーはしょうがないわねと一言言うと理事長に仕入れて貰う様、我が儘を受け入れた。
数日後に仕入れが確定した事を伝えた時のエースの喜びようは、少し幼く見える程だ。我が子可愛さとはよく言ったもので、頬を染めてありがとうと言ったエースの顔はマザーの母性を刺激するには充分なものだった。
そして今日、入荷した本をいそいそといの一番に借りるとクリスタリウムを出て、教室へと戻ってきたのだ。
至福の時間。だが、口寂しくて食べる物はないか鞄の中を探しても何もつまめるものは見付からず、部屋に帰ったらにするかと諦めていた時、教室のドアが開く。
コツコツと響く聞き慣れた足音に、エースは振り向かなくても誰が来たか分かる。

「マキナ」

横に座るのと同時に名を呼ぶと、マキナは少し驚いた表情でエースを見やる。

「よくオレだって分かったな」
「足音が特徴的だから」
「ふーん...?あ、また本読んでる」
「うん。マザーに頼んでたやつ来たからな」

嬉しそうに笑うエースの表情にマキナも目を細めると「良かったな」と微笑む。

「マキナも読んだ方がいいぞ、凄く面白いしためになる」
「パスパース!活字を長時間見てると頭痛になるから!」
「...そんな事言ってるからクラサメ先生の補習毎回受けてるんじゃないのか」
「あーエースは今日も可愛いなー」
「話を逸らすな」

ヘラっと笑うマキナを目を細めて見れば、彼は視線がまるでキャノンレーザーみたいに鋭いよなと笑って隣に座る。
それは攻撃的という事なのか、何の意味でそれを言ったのか、エースの眉間に皺が寄る。
それを見て何を思ったのか皺を触って可愛い顔が台無しなどと言うものだから、どの口が抜かしてるんだと小言の1つでも言いたくなってしまうのは当然かもしれない。

「そんな怒るなって、ほらエース、あーん」

鞄をゴソゴソと漁るマキナに言われ、反射的に口を開くと中に何かを入れられた。
舌で触るとコロッとした小さく、固い丸い形の何かで、それは次第に熱で徐々に溶けていく。
じわあっと広がる甘味にエースは首を傾けると「...チョコ?」と呟く。

「そ。新作のフリーズドライしてる苺のチョコだってさ」

カカオの風味と甘酸っぱい苺の味が口いっぱいに広がって、思わずエースはその美味しさに口角が緩む。
丁度口寂しいと思っていたので尚更だ。
美味しい、と食べるエースを見ていたマキナは長めになっている側の前髪を一房摘むと名前を呼ぶ。

「なんだマキ......ナ...」

振り向けばドアップになったマキナの顔。
端正な顔立ちが視界いっぱいに入れば、エースはこれでもかと言わんばかりに目を見開いて固まった。
次第に赤く染まっていく顔にマキナは初だなぁと感じ、目を細めて笑う。

「...、うん、美味しい」
「な、なっ...」

ペロッと桜色をした唇を舐めて体を離せば、全身を戦慄かせてこちらを見るエースは見た事ないくらい真っ赤になっている。
まるで今食べてるチョコの苺のようだ。

「何するんだ!というか外ではするなってあれ程言っただろ!」

信じられないと羞恥にプルプルと震えるエースがまるで小動物みたいで、マキナはやっぱり可愛いなと悪びれもせず笑う。

「外では、かー。じゃあ部屋の中でならいいって事?」
「ーー~~...っ!馬鹿!知らない!!」

マキナの発言に限界まで赤くなったエースは本を荒々しく仕舞うと、勢いよく席を立った。
そのまま大股でドアまで歩いていくエースに意地悪しすぎたかな、とマキナは胸中にて反省をすると、次に可愛らしい恋人へのご機嫌取りをどうするか模索する。
きっとエースの事だ。謝って押しまくれば許してくれるのは分かっている。でもそれじゃ2度目のチャンスは貰えない。
チョコボのぬいぐるみがいいかな、と思案しながらマキナは「待ってよエース」と至極爽やかに笑いながら本の虫である華奢な少年の背中を追い掛けた。
アンタが大好きだからオレは意地悪するんだ。ごめんな。
だって恋人だからね、と自分の心に言い訳をしながら。

if軸捏造設定込みの9A(零式)

いつもの様に授業が終わるとリフレに行き、各々に好きなものを食べる。
ナイン、エースもそのうちの1人でお互いにカウンターに座って注文をすると、出来上がりまでの間を話しながら待っていた。
次の休みはどこに行くか、その前に試験だろう、と。
そんな折、ふとエースが料理人の動きをじっと見て一言「...マザーの料理、暫く食べていないな」と洩らした。

「そうだっけか?」
「ああ。最近は任務も多いからなかなかマザーの顔も見に行けないしな」

オリエンス4カ国はパクスコーデックスによる不可侵条約によって理由無き侵略行為を認めず、また、平和の為の協力関係にあった。
エース達が魔導院に入学する前までは互いに領土の取り合いで戦争をしていた事もあったようだが、ここ数年、異常なまでに増殖し続けるモンスターや、外敵からの侵略が増えた事にコンコルディア王国女王、アンドリアの一声によって協定が交わされ、今日に至る。
そうして協定後に魔導院ペリシティリウム朱雀に入学した者達は、合同演習や外敵による実戦演習、べスネル鍾乳洞等のダンジョン内部にて戦闘能力評価で単位を取っていた。
そうして成績が優秀な者から番号の若い順でクラスに振り分けられ、優秀な者からより過酷な任務を与えられる。
エース達、ドクター・アレシアに引き取られた孤児院の子供達は全員戦闘能力に特化しており、極めて優秀な0組に配属されていた。
前述、エースが言っていたように任務が多いと言うのはそれだけ彼らが信頼されている証であり、喜ばしい事なのだが任務完了をして戻ればまた次、という目まぐるしいまでの忙しさにエースは少々疲れ気味になっていた。
マザーの料理が食べたいだなんてよっぽど疲れているんだろう、ナインはフォークを口に加えながらぼんやりとエースの様子を眺める。
食べたいと言ってもマザーも多忙故に会いたいからと言って会える訳でもなし、会えても手料理なんて食べれるかが分からない。
あまりのハードルの高さにどうしたものかとガラにもなく考えていると、同じ様に任務から帰還したのかレムとマキナがリフレの転送魔法陣から出てくる。

「レム...もう少し任務の難易度下げないか?あちこち痛いんだ...」
「ちょっと筋トレ足らないんじゃないのかな?...あっ、エース!ナイン!戻ってたの?」
「お前らも戻ってたのか」
「おかえり、2人とも」

2人を見付けた幼馴染み組はエースの横にマキナ、ナインの横にレムが座って注文を始める。
仲悪いのかコイツら。
しかしさっきまでのぐったり顔は何処へやら。エースの横に座ったマキナはいつもの眩しいくらいの爽やか好青年の表情で任務はどこだったのかと話し掛けている。

「蒼龍ホシヒメと合同で北トゴレスの掃討作戦にあたってたんだ」
「へえ!蒼龍と合同だなんて凄いじゃないか!俺も一緒にやれる日が来るかな...」
「マキナなら平気じゃないか?今回のだって結構ハードだってキングから聞いた」
「あーあれさ、レムと2人で現地着いたらカトル准将とキングが顰めっ面で並んで腕組んで待ってるんだぜ。なんかもうおかしくて任務どころじゃなかった...」

光景を思い出したのか肩を震わせて笑い出すマキナにエースも釣られて控えめに笑う。
どう見ても成人してるとしか言えないキングがカトルと並んでいるだけでもインパクトが強いというのに、更にそこに来て眉間に皺を寄せているのだと言うのだ、これが笑わずにはいられない。

「あんまりに笑いすぎてマキナってば『任務に行く前に少し手合わせをするか』ってキングにボロボロにさせられてたんだよ」
「おっ、おいレム!それは言わない約束だって...!」
「そんな約束知りませーん」

エースとナインを挟んで約束を言った言わないの押し問答をしている2人を尻目に、出された食事を食べながらナインが「老け顔なの気にしてっからな」と言えば、エースは後で言いつけておこうと誓う。
出されたオムライスを一口食べればケチャップライスと柔らかいふわふわ卵にデミグラスソースが絡まって、コクのある優しい味わいが口いっぱいに広がる。

美味しい...んだけど、やっぱり

マザーの料理が食べたい。
任務に疲れたのもあるのだろうが、あの懐かしい味が食べたかった。
もくもくと食事を続けるエースは傍目から見ればいつもと何も変わらないが、付き合いの長いナインには違いが分かる。
確実にホームシックのような状態になってるエースをそのままには出来ないナインは背中側で言い合いを続けてる2人に声をかけた。

「おい、痴話喧嘩してっとこわりいんだけどよ」
「誰と誰が痴話喧嘩なんだ?」
「お前とレム」
「待って、やめてナイン。マキナとそんな噂になったらもう私魔導院退学したくなる」
「そんな言い方ないだろ...」
「本当の事だよマキナ。いつまで経っても本命に告白しないヘタレ全開なのに、私に話す時だけはすっごいだらしない顔して可愛いだのなんだの喋ってるじゃない。あ、ごめんねナイン。話があるんだよね?」

今とんでもない事を聞いた気がするが、レムに用件を催促されればナインは頭を掻きながら「後ででもいいか?」と返す。
その様子にレムはエース絡みの話なんだろうと察して笑顔で頷く。
言っておくが、別にレムはマキナと恋人になりたいとは1ミリも思っていない。マキナが本命とやらに告白も何もしないのも楽しんでいるし、本人を目の前にするとやたらとカッコつけたがる癖に何も言えないそのヘタレな性格が弟のように可愛いのだ。
可愛いが故のいじめたくなる性分に我ながら意地悪だなと思うが、しょうがない。
運ばれたビーフシチューに舌鼓を打ちながらナインの話はなんだろうと考えていた。

「えっ料理?!」
「ばっ...声がデケぇっつーの!」
「ご、ごめん」

昼食の後、クリスタリウムに行くと言ったエースと別れたナインはレムの部屋にお邪魔をする形で相談をしていた。
昼食中、何とかしてエースを喜ばす方法がないかと考えたナインが、辿り着いた先の答えは自分が料理を作って食べさせる事。
流石行動する力を持つ男ナイン。
そうと決まれば善は急げと言わんばかりに作ろうと思ったが、何分ナインには料理の経験がない。
だからレムに相談を持ちかけ、話したのだ。
ポケットに両手を突っ込んで照れ臭そうに唇を尖らせてちょっと料理っつーの教えろよコラと話すナインの衝撃と言ったら、あまり動じないレムにショックを与えた。
最初は冗談でも言ってるのかと思ったレムだったが、エースの調子や、エースがホームシックになってる事、エースが元気がない事など、エースの話をこれでもかと聞かされたレムはナインの本気度を知る。
呆れつつもその真摯な様子に心打たれると、マキナごめんねと胸中で呟くと自身の胸をドン、と叩いてにこやかに微笑み私に任せて!と買って出た。

「所で何作るの?」
「...ニワトリ?」
「え?」

エプロンを付ける手が止まる。
冗談なのかと問いただそうとすると、ナインを見れば顎に手を当てて考えているようだ。

「卵焼きか?マザーのやつがちょー美味くてよ、エースも好きなんだよな」
「卵焼きかぁ、なるほど」
「ソイツを作るのにまずはニワトリから必要になんだろ?」
「あっ、うん。大丈夫、卵なら冷蔵庫入ってるから。ニワトリはいらないよ」
「マジかよすげえな」

感心するナインを放っておいて卵を2個取り出すと、コンコン、と角で軽く叩いてヒビを入れ、ボウルの中に中身を落としていく。
殻を捨てたら泡立て器でシャカシャカと音を立てながらかき混ぜる。
ある程度混ぜたところで塩、瑚椒を散らし、フライパンを温める。

「味付けは好みになるから、塩の代わりに砂糖入れてもいいからね」
「砂糖ってなんだコラ」
「そこから?」

油を引いたフライパンに卵を流しながらレムは調味料の瓶を並べていき、順番に指差す。

「砂糖、塩、お酢、醤油、ソース。これが調味料のさしすせそね、ナイン持ってないと思うから暫く私のやつ使ってもいいよ。どっかにレシピの本あったから、最初はそれ見ながらやるといいかも!」
「へー、詳しいんだな」

至って当たり前の事で詳しいも何も無いのだが、考えてみれば0組にいる彼らは編入した自分達とは違って幼少期から戦闘訓練や戦いに関する勉強ばかりしていたと聞く。
おまけに全員孤児で同じ施設で育てられ、そこで親の愛を幼い頃から受けられなかった彼らへ悲しみが浮かぶ。

知らないのも無理ないよね...。

だが、彼らの絆は家族以上のものを持ち、何があっても結束力が高い。
だからこそ今回、ナインが何も知らなくてもエースの為に行動を起こそうとした意思は理解出来る。
レムはなるべく簡単で、美味しいと言ってもらえる料理を教えようと固く誓った。

「はい、こんな感じ!」

皿の上に出来上がった卵焼きを乗せると、包丁で一口大に切り分けていく。食べてみて、とフォークを渡すとナインはそれで刺して口の中に運ぶ。
出来立て特有のふわふわとした食感が広がり、卵の柔らかい味わいに感嘆の声があがる。

「うめえ!」
「ふふ、ほんと?味付けとか結構変えれるから卵焼きって言ってもバリエーションあるんだよね」
「すげえんだな…、てか俺に作れんのかコラ」
「大丈夫!それならこのレム先生に任せて!」

少しでも手伝えたら、そんな気持ちが伝わったのかナインも頼むなセンセー!と歯を見せて笑った。
卵の割り方から始まり、混ぜ方、味付け。どれをやっても大雑把で不器用代表のようなナインは苦労した。卵を割ろうとすれば強く叩きすぎて潰れ、ヒビが入って左右に開こうとすれば殻が混じり、上手く出来ない事に苛立たしげではあったが、それでもナインは文句や泣き言一つ言わずに何度も何度も練習をした。
試験もそれくらい真面目にやれ、とクラサメ隊長の声が聞こえてきそうな真剣な態度に、レムはエースの事が好きなの?と思わず呟いてしまう。

「...あん?」
「あ、えっとほら、エースの為にそんなに真剣にやるのって好きなのかなって」
「好きかって...、そりゃ家族だからな。アイツとはガキん時から一緒だから好きかって言われたら好きだぜ」
「家族だけ?」
「おう、...ってかそれ以外ねえだろ?」

レムとしてはそういう意味で聞いた訳ではなく、恋情として好きなのか聞いたのだが、食い違ってる様子のナインを否定する気はなかった。

「それに、アイツは俺が見てやんねーと我が儘も言わねえで無理すっからな」

愛おしそうにエースの事を話すナインの横顔が酷く穏やかで、自覚こそしてないものの直感で好意を抱いてるのは間違いないと確信する。
不器用で、それでいて真っ直ぐな感情にレムは小さく笑うとそうだね、と返した。

練習開始からはや1時間。
足りなくなった卵を買い出しに行ったり、エースはどこかと聞いて絡んでくるマキナに特に意味の無いビンタをしたり、様子を見ていたデュースやセブンにも手伝って貰ったりとしていると、コツを掴んだナインはメキメキと上達していった。

「...よっ、と」

フライパンを軽やかに振って卵焼きをひっくり返すナインは、1時間前の卵を握り潰していた人間と同一人物とは思えない。

「凄いな、今までで最高の出来じゃないか?」
「ナインさんはやれば出来る子なんです!」
「わーおめでとうナイン!ちゃんと作れてるよ!」

滑らせて皿に乗せるとフライパンをコンロに戻して手首を振る。
何せ1時間ずっと持っていたのだ、疲れるに決まっている。
テーブルにズラッと並ぶ作った卵焼きの数は凄まじく、最初の物であろう卵焼きは焦げていたり、形がぐちゃぐちゃだったりしていた。
それが練習を重ねていく内に焦げは無くなり良い色合いに、形はきちんと丸まっている物になっている。

「よーっし、こいつでいいんだなコラ!」

やりきった顔をして汗を拭うナインは忘れていた。

「ねえ、ナイン。...何か忘れてない?」
「ア?」
「お弁当作るのにおかず卵焼き1個で終わらせるつもりじゃないよね?」
「......」
「まさか忘れていたのか?」
「寝る前までには終わるといいですね」

笑顔のレム、デュース、セブンの3人に何か怖いものを感じる。
これ1個じゃまずいのかと聞こうとすると、ドン!とテーブルにボウルが置かれた。

「はい、ナイン!次はハンバーグだよ!これが終わったらアスパラのベーコン巻き!」
「肉ばかりになるからおひたしも覚えて貰わないとな」
「勿論エースさんにはデザートも食べて貰わないとですね」

有無を言わさない3人に圧倒されたナインは背を伸ばすと、ガラにもなく吃りながら宜しくお願いしますと敬語を使ったのは、魔導院ペリシティリウム入学以来の出来事だったのは言うまでもなかった。

翌日、朝のHRギリギリに教室に入ってきたナインは自分の席に座ると欠伸をして机に突っ伏した。
昨日料理の練習を消灯時間近くまでやっていて、時間が迫ってくる頃には3人も鬼気迫るものになっていた。特にハンバーグのくだりに関してはナインですら恐れ慄くくらいだ。バハムートですらも翼を畳んで逃げる程のスパルタは今後一生、2度と味わいたくないと思いつつも、教壇前の最前列に座る金色の頭を見つめる。
喜ぶかどうかだなんて保障はない。失敗しても笑ってくれればいい、そんな気持ちでクラサメの朝礼の言葉を聞き流す。
その後も身に入らない授業を受けたり、席を詰めてエースにくっつこうとするマキナの頭に返ってきたテストを丸めてをぶつけたりして迎えた昼。昼休みのチャイムが鳴ると同時に席を立つと、エースのいる席へと向かう。

「よお、飯食い行こうぜ」
「ん。リフレに行くのか?」
「いや、今日は持ってきてんだ」
「?」
「購買で飲みもんだけ買えばいいしよ。あ、本持ってくだろ」
「ああ、ありがとう」

エースの荷物も持つと、弁当が寄らないように慎重に気を払いながら歩いていく。視界の端でセブン、デュース、レムが親指を立ててグッジョブと言っていた気がしたがナインは見なかった事にする。
後ろを歩いていたエースが少し小走りで近付いて隣に並ぶのを感じたナインは速度を落とした。たった半日しか離れていない筈なのに、その半日ですら久々に感じる。

「エース、何か買ってやるよ」
「いいのか?」
「おう。背が伸びるし牛乳か?」
「...、今ここでブリザドBOMを至近距離で食らうのとカフェオレ買うのどっちがいいんだ?」
「カフェオレな、カフェオレ」

他愛の無い冗談の言い合いをしながら笑って歩く2人は誰が見ても仲睦まじく、パッと見の不良に拉致られてる大人しそうな少年というイメージを払拭する。
魔導院の中でもナインとエースの仲は折り紙付きでその信頼関係を知らない者はおらず、一見するとエースが守られているだけのようにも見えるのだが、実際はエースが戦いやすい環境をナインが作り、そこをエースが維持しながら戦うというお互いの能力を把握しているものならではだ。

「おし、裏庭誰もいねえな」
「今日は出席してる仲間も割と少なかったからな」
「あー、なんかジャックが言ってやがったな。...なんとかブリッジに竜だかが来たとかってやつ」
「ビッグブリッジな。白虎との共同作戦で魔導院からも結構な人数が出てるらしい」
「白虎はつえーヤツいんのにやっぱキッツいんだな」
「魔法が使えないからな。空を飛ばれると厄介なんじゃないか?」

エースお気に入りの陽の当たるベンチに座ると、ナインは弁当を包んでいる袋(レムから手渡された)を開けた。
見慣れぬ箱にエースはじっとその様子を見ていると、ほら、と渡される。

「これは何だ?」
「開けてみろよ」

言われるままに箱の蓋を開けたエースは中身に驚く。
詰められた白米に、仕切りで区切られた場所には卵焼きとハンバーグ、アスパラのベーコン巻きにほうれん草とコーンの炒め物がそれぞれ綺麗に詰め込まれている。

「えっ...と、これ...」
「あとこいつな。野菜も食わせろって言われたからよ」

話がよく分からないエースに構わず、ナインは小さなタッパーを取り出すとそれも手渡す。
威力を最小に抑えたブリザドMISを保冷剤代わりに使っていたのか、小さな氷塊がコロンと落ちてきた。
驚きを隠せないエースの表情に気付いたナインは、あー、と言いづらそうに後頭部を掻くと昨日のエースが話していた言葉を呟く。

「...卵焼き」
「え?」
「昨日、マザーの料理食いてえって言ってたろ」
「ああ...そうだな」
「マザーみたいにすげえのは作れねえから、卵焼き。...味とかマザーと同じかどうかは自信ねえけどよ」

ぶっきらぼうに話すナインの手は怪我だらけで、それだけでこの男なりに一生懸命やっていたのだろうとすぐに分かった。
ジワリ、と胸のあたりが温かくなる感じにエースは擽ったくなる。
照れ臭いような、恥ずかしいような。
食べるのを待ってるナインは、まるで主人を待つ飼い犬のようでなんだか微笑ましくなってくる。

「...いただきます」

卵焼きを半分にして口に運んだエースはその体勢のまま固まってしまう。
まさか失敗したのかとナインが声をかけようとすると、エースの口から美味しい、と小さな声だが聞こえた。
懐かしそうに瞼を閉じるエース。
幼い頃、近所に住む子達が誕生日などでケーキやチキンといったご馳走を食べているのが羨ましかった。
決して裕福ではない孤児院、我が儘を言ってはいけないと感じていたエースはマザーにケーキはいらないから代わりに甘めの卵焼きを作って欲しいと頼んだ事がある。
牛乳と軽く砂糖を混ぜた卵焼きはほんのり甘く、牛乳のお陰でふわふわとしていて、まるでパンケーキのようだった。

「懐かしいな…、あの時を思い出すよ」

幸せを噛み締めるようにゆっくりと味わう。
あれ程までに食べたかったマザーの手料理を、孤児院の中でも1、2位を争うくらいのガサツな男が自分の為に作った事実。激務で疲労困憊になっていた体に甘さと、ナインからの暖かさがじんわりと浸透していく。

「美味しい」
「ホントか?」
「僕は嘘は言わないさ。...ハンバーグ結構焦げてるな...」
「う、うっせえな!嫌なら食うんじゃねえ!」

真っ黒に焦がしたのは自分でも分かっているのだろう、エースの言葉に噛み付くナインだったが、ハンバーグも一口サイズに箸で切るとその小さな口に運んでいく。

「美味しい...美味しいよ、ナイン」

小さく、ふわりと嬉しそうに微笑むエースにナインはドキッとする。
そこまで喜んで貰えるとは正直想像していなかったが、突貫で練習したもので笑顔が見れるなら安いものだと思う。
ふとレムに言われた言葉を思い出す。家族にしては妙にむず痒く感じる感覚だが、ナインは確かにエースの事が好きだからやってるんだよな、と納得をした。
思わずまた作ってやっから、とポロッと呟けばエースも楽しみにしてると笑っていた。

1DKから始めましょう。その2

結局次の日遅刻寸前で起きた2人は、慌ただしく支度をするとそれぞれの職場へと出勤して行った。
休んでも構わないのではないだろうか、と天司長の時には考えられなかった体たらくな発言をするルシフェルの背中を押して外に出すと、夜にまたあのコンビニで会う約束を取り付けて無理矢理向かわせた。
チラチラこちらを振り返る彼に後ろ髪を引かれる思いで背を向けると、大急ぎで職場へと遅刻する趣旨の電話をする。
当然サンダルフォンは自宅に帰る時間も無かった為、前日と同じ服装で行かなければならず、気分の良いものではなかったが我慢するしかなかった。
息切れを起こしそうなくらいの全力疾走で駆け、ビル街の隙間にある小さなカフェに到着するとバクバクと煩い心臓を押さえて呼吸を整える。深呼吸を一つ。
少し前に別れたばかりなのにルシフェルに会いたい気持ちを切り替えてドアを開ければ上部にあるベルがカランコロンと音を立てた。
おはようございます、と形式的な挨拶と遅刻の謝罪を店長に言うと、バックルームに入って走って汗だくになったTシャツを脱いでハンガーに掛ける。本当は洗いたいが、夜にまたルシフェル宅に行くだろうしその時に洗えばいいだろう。

サンダルフォンさん、寝癖ついてます!」

出勤早々、着替えていると白縹色の髪の少女がバックルームに入るなり叫んだ。

「...ルリア、君な...着替えてる所に入るなんてナンセンスだと思わないか?」

ズボンを先に穿いていて良かったと思う。白いシャツに腕を通したばかりで前面の肌が思いっきり見えている。ルリアと呼ばれた少女は手で顔を隠して「はわわ」と言っているが、指の隙間から見ているのが丸分かりだ。
空の世界に同じ名前の少女がいたが、生憎こちらの世界での蒼の少女は別人らしく、記憶が無い。

「入ってきた時に髪が跳ねてるから気になっちゃいまして...」

ボタンを閉めながら鏡で自分の姿を確認すれば、確かに左の横髪が外に跳ねている。
そういえば、と思い出す。
ルシフェルの家は凡そ広いとは言い難かった。1DKのこじんまりとしたアパートに住んでいて、中は片付けが苦手なのか物が乱雑に置かれていた。
彼の名誉の為に言うが汚部屋では無く、ただただ物の集まりにまとまりがないだけだ。
天司を統べていた時とは異なり、あまりにも人間らしすぎる部屋に思わず笑みが漏れる。
「少し散らかっているが」と案内されて、テーブルを挟んで対面で座っていたら、隣に来るようにとルシフェルに誘われた。距離の近さに緊張しつつも肩を並べて座り、買った物を食べながら今まで生きてきた人生の話をお互いに話し合った。
この世界に来る前の、空の世界での事も。
遺産を全て破壊した事を伝えれば、彼は湖の水面が漂うが如く瞳を揺らめかせ、憂いを帯びた表情で「そうか」と返事した。
褒め言葉を貰えなかった事に多少の落胆はあったものの、過ぎた出来事だからだろうと納得する。
会話を始めた時間が時間なだけにたった数時間しか話していなかったが、いつの間にか寝落ちていたらしく、起きた時にはルシフェルの肩に頭を乗せて眠りこけていた。
恐らくその時についたであろうそれに寝癖直しのスプレーを鞄から取り出してサッとつけていく。

「これでどうかな」
「完璧ですっ!」

サムズアップをするルリアにフッと口角を上げ「それでは行こうか」と促すと、白縹色の少女は元気よく返事をする。

...が、ホールに出た瞬間、今まで見た事がないくらいの人数で席が埋まっていた。ビル街にある小さなカフェなので平日は疎らだし、休日だからといって満席など一度だってない。
なのに、今は席待ちしている人すらいる始末だ。
唖然とするサンダルフォンにルリアは内緒話のように小声で「近くに新しいレストランが来たみたいです」と告げる。

「...レストラン?」
「えっと、paradisoっていうイタリアンレストランです!」
「成程」

トレーとメニューを小脇に抱えると興味無さげに店内を見渡す。
確かに来ているのは女性客ばかりだ。しかも口々にあれが美味しかったこれが美味しかったと料理の感想や店員の男の外見の話ばかりが聞こえる。
種類豊富に置いている訳では無いが、ここだって充分に料理は美味しい。珈琲だって好みの味だ。
キリマンジャロ系からマンデリン、ブラジルサントスにコピ・ルアクまである。
ここに面接に来たのだって珈琲が美味しかったからだ。それなのに。
取り敢えず頼んだであろう珈琲が、テーブルの上に置かれたまま冷めていく様子にサンダルフォンは腹立たしく思う。

「サ、サンダルフォンさん、皺!皺が寄ってます!」
「...わかってる」

無意識に険しい顔になっていたらしく、ルリアに小声で注意されて大きく溜め息をついた。
早くルシフェル様に会いたい。
珈琲の良さが分かるあの人だったらこんな事にはならないだろうと生まれて初めて一分一秒でも時間が過ぎて欲しいと願った。

その後も止まらない客足に目が回る忙しさだった。
勤め始めてから初の出来事なので喜ばしいが、如何せん雑談するのに立ち寄った感が否めず、中途半端に残された珈琲と洋菓子に心がモヤモヤとしてしまう。
ナンセンスだ。これでは金の無駄になるだろう、と漸く人気が引いた店内を見渡してから食器を洗っていると、ルリアもトレーに食器を乗せてカウンター内に入ってくる。

「今日は常連さん入れなかったですね...」
「そうだな。だからといって毎日入れないわけじゃない」
「そう...そうですよねっ」

へにゃりと眉を下げて自分に言い聞かせる様に納得しているルリアがキュッと口を横に引き結ぶ。
いつも来店する常連が入れないのが分かると今日はやめておく、と去っていったのが僅かながらにも堪えたらしい。
相変わらず誰にでも優しいものだと感心する。
だが、かつてのサンダルフォンも幾度となく彼女の言葉に救われたし、彼女の笑顔を見て嫌な気分になる人間などいない。
「明日はみんなが珈琲飲めますように」と歌いながらテーブルを拭いている姿が微笑ましく、自然と口角が弛んだ。
不意にカランコロンとドアが開いた音が鳴ったので、其方を向いたがいらっしゃいませという言葉は出なかった。

「な...っ、」

煌めく銀髪に透き通った空の目。
敬愛しているルシフェルに似ているのにどこか違う。
もしかして違うかもしれない。だけどそうかもしれない。拭い切れぬ違和感のまま、生唾を飲み込んでトレーとメニューを脇に抱えると「席にご案内します」と伝えてその男に近寄る。

「...そうか、ここにいたのか」

その一言と同時に掴まれる腕。
見下ろす蒼い瞳はどこまでも冷たく、まるで極寒の地の氷のようだ。
心臓がバクバクと鳴り響き、背筋が凍るようなこの感覚は間違いなくあの男だ。
何故ここに。何故。
どうして俺を覚えているのか。

「...るし、ふぁー...」

隠しきれない怯えと、カラカラになった喉から辛うじて出せた声にルシファーは鼻で笑うと「さっさと案内しろ」と腕を離した。
震える足を叱咤して奥の角の席まで案内すると、少し思案する仕草をしてから椅子に座る。

「...今、水とおしぼりをお持ちいたします」

努めて平静な声を出して去ろうとすると、背中に声を投げられた。
頭が痛い。一刻も早く離れたいのに。イライラする気持ちを抑えて振り向けば、ルシファーはメッセンジャーバックから白い封筒を取り出してサンダルフォンに差し出してきた。

「アレからお前と出会った事を聞いた。俺はどうでもいいが、アイツの機嫌を損ねて仕事に支障が出ると敵わん。受け取れ」

有無を言わせぬ強い眼光に封筒を受け取ると開けるよう促される。
封を切り、恐る恐る中身を見てみると何枚かの細長い紙が入っていた。何だこれは。
初めて見るそれに、どう反応していいか分からず固まったサンダルフォンにルシファーは一言「ビール券だ」と言ってきた。

「...ビール...券」
「そうだ。家の近くにコンビニがあるのだろう?そこでなら使用出来る。だが、忘れるな。券を使うには酒を1つ購入しないと全額現金になるからな」
「なんでこれを俺に」
「ただの気まぐれとでも言っておいてやろう。...さぁ、さっさと珈琲を持ってこい」

グズグズするなと付け足されて追い払われたサンダルフォンは、ビール券が入った封筒を片手にカウンターに戻り混乱した頭のまま湯沸かし始めた。

その後もルシファーは特に邪魔も嫌味も吐き出す事無く珈琲を静かに堪能し、帰り際も「釣りはいらん。そこの募金箱にでも入れておけ」とレジ横の黄色の透明なボックスを指差して店を出て行った。
ボックスに貼られたシールには『〇〇地区ワンちゃんネコちゃんわくわく運動会募金箱』と記されていて、動物が好きなのかと疑問を浮かべつつお釣りを入れていく。
ルシファーをまるで静かに進路を逸れる嵐だと思った。
人々を恐怖に陥れようかと出没したが、周りの心配を余所に素知らぬ顔をして明後日の方向に行く。
元々研究所にいた時から思考の読めない人間だったが、まさかこの世界でもそれをいかんなく発揮しているとは。ルリアに知り合いかどうか聞かれた際、上手く誤魔化せたかは分からないが、彼女は「どこかで見た事があります」とうーんうーんと唸りながら片付けをしていた。

夕方5時、夕勤シフトのメンバーと交代になったサンダルフォンは、手早く着替えて店を出てまだ日の高い空を見上げた。
珍しく早上がりだったのを今日程喜んだ事は無い。
ユニクロでTシャツを購入する時間があるからだ。
流石にルシフェルと会うのに汗をかいた前日と同じ服では行けない。
極度の潔癖症という訳ではないが、あの人の横にこの状態で並ぶのは余程の横着者だろうし、そんなのは自分で自分を殴り飛ばしたくなる。

サンダルフォンさーん!」

歩き出したサンダルフォンの背に元気な声がかかる。
振り向けば店の入口にルリアとお迎えに来たらしいグランがいた。
手を大きく振る少女に同じく手を上げて返すと2人は笑顔になった。

「またお休み明けに会いましょうね!」
「あ、そうだ、今度3人で遊び行こうよ」
「気が向いたらな」
「またそういう事言うんだから」

苦笑するグランと朗らかに笑うルリアに別れを告げて店へと向かう。
動きやすさを求めてるせいか、普段から飾り気の無いシンプルな服ばかり所持している。給料日前だしそこまで多くは買えない。
青い七分袖の薄手のTシャツを手に取り着替える分だけでもいいかと思索に耽るが、つい新商品のコーナーにぶら下がった黒の単色に左胸の部分に白い羽のマークがついたTシャツを見て思わず自分にぴったりだと感じ、それも合わせて合計2枚購入してしまった。
着替えたい趣旨を伝えればタグを切って余分に1枚袋を渡してくれた店員に感謝をしつつ、トイレの個室で前日のTシャツを脱ぐ。
壁側の棚に置かれた財布が視界に入ると余計な出費をしたと苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。1枚でよかったのに。何だって2枚も買ったんだ。
給料日まであと2週間近く。中に残った3000円でやりくりせねばならない事に溜め息しか出なかった。
余った時間で街を歩いて観光し、迎えた8時前。
約束したコンビニの近くに着くと店の外で携帯を片手に立っているルシフェルの姿が見えて一気に駆け出す。

ルシフェル様!」

なんて事だ。
彼の人を待たせてしまったのか、もっと早くに来るべきだったと無意識に舌打ちが零れる。
サンダルフォンの声に気付いたルシフェルがこちらを向き、そしてふわりと微笑む。
緩く弧を描く唇、細められた目は愛おしい者を見るそれで、春の朝日の様な眩しい笑みに心臓を鷲掴みにされそうになる。

「変わりないかな?」
「え?は、はい、バイトも順調です。...ああそうじゃなくて遅くなって申し訳ありません...」

ぜえはあと呼吸を整えつつ答えれば、ルシフェルはかぶりを振って柔らかな頭を撫でた。

「私もここに着いたのは先程だ。気に病む必要はない」
「でも、」
「昔は君が私を待っていてくれたからね、今は私が待ちたいんだ」
「...ッ!」

カァッと顔が熱くなった。
甘すぎる言葉は煩いくらいに心臓を鳴り響かせ、喉はひくついて思ったように話せなくなる。
あの、その、と吃るサンダルフォンの頬を指の背でそっと撫でると「後は家で話そうか」と囁く。
甘く優しいルシフェルに死んでしまいそうだと思いつつも、辛うじてぶんぶんと首を振って頷けたのは頑張った方だとサンダルフォンは自分を褒めた。
財布の中身も寒いので、コンビニで買い物はせずに家路に向かう最中、「そういえば、」と口を開く。

「今日、バイト先にルシファーが来たんです」
「ああ。友に君と再開出来た事を伝えたからね」

ルシファーがアレから聞いた、と言っていたのはルシフェルの事だったのか、と納得した。
そうなると2人は同じ職場なのか?と疑問も残るが、会って2日目で根掘り葉掘り聞くのもはばかられたので心に留めておくだけにしようと頷く。

「でもアイツ、嫌味も何も言わなくてなんか、こう」
「研究所の時と違う?」
「そうなんですよ。なんか不気味で...おまけにビール券だ、なんて言って封筒寄越してくるし」

ルシファーの物真似なのか、腕を組んで見下ろす仕草をするサンダルフォンに苦笑するルシフェル

「君に会うなら手土産くらい必要だろうと引き出しをひっくり返していたからな。その時に以前贈答用だとかで貰ったビール券が出てきたからそれを渡したのだろうと思う」

サンダルフォンは言葉を失う。
あの人を人だと思わない冷血ド鬼畜研究者がそんな事をするとは思わなかったからだ。
どちらかと言えば「俺と話すだと?ならそれ相応の菓子折りを持ってこい」くらい言いそうなものなのに。顔に出ていたのかサンダルフォンの頬をするりと撫でると、ルシフェルは至極優しい表情で「あれで友もこの世界に馴染もうとしているのだ」と話すと目を伏せた。
過去の事を全て水に流したり、割り切るのはまだ勇気がいると思う。
だが、こうやってルシフェルやルシファーが前の世界と真逆の、穏やかで平和な世界に馴染もうとしている姿にサンダルフォンは誰も傷付かないのならいいんだと嬉しくなった。それでなのか、ついつい喫茶店に来たルシファーの態度をああだったこうだったと話していると、繋いでいた手の力が不意に強くなる。

ルシフェル様...?」
「...あまり私の前で友の話ばかりしないでくれ。妬いてしまうよ」
「はへっ?!」

へにゃりと眉を下げて微笑むルシフェルにボンッと顔から火が出たサンダルフォンは、ああもうずるいですルシフェル様!と胸中で叫びながら、唇を戦慄かせて「それは大変申し訳ござんした…」とおかしい日本語を発した。

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午後8時、バイトを終えたサンダルフォンはクタクタの体を引きずりながら家の近くのコンビニへと寄った。
帰って自炊するには微妙な時間で、明日の朝には別のバイトの出勤がある。だから手早く弁当を買って済まそうと言うのだ。
自炊の方が安く済むし、栄養価もあるのは重々承知しているが、なにぶん今は一秒でも早く休息が欲しい。天司の頃は食事や睡眠で困る事は無かったのに、と考える。
遠い過去の記憶を持ったサンダルフォンは、どういうわけかファンタジーな世界とは真逆な場所へと転生していた。
気付いたのは5歳。
母親との買い物の帰り道に転んだ時の衝撃がきっかけで、自分が天司であった記憶を取り戻した。

研究所で敬愛する人に造られた事、叛逆しパンデモニウムに幽閉された事、そして二度目の罪。
愛した人の死と、託された願い。
がむしゃらに走り抜け、ルシファーの遺産を全て破壊したサンダルフォンは、自身のコアがひび割れる音を聞いた。
力無く垂れる羽は飛行能力を失い、特異点や蒼の少女の悲鳴が聞こえる中、空の底へと落下して行く。

ルシフェル様。

流れた涙は空へと散り、朝焼けの光を透かしており、千切れていく純白の羽はルシフェルとの繋がりが薄れていくのを知らしめているようだった。

-俺は役目を果たせましたか。

よくやった、サンダルフォン
君は頑張った。

耳に馴染んだ優しい声に瞼を閉じる。都合の良い幻聴だとしても、サンダルフォンにその短い一言は大きな救いだった。
良かった。口角が弛む。
軽くなっていく背中の感覚にこれで全てが終わるのだと理解する。
もう一度だけ、会いたかった。

「...、シ...、フェル...ま...」

空の底に激突する直前で呟いた言葉を最後にサンダルフォンの意識はブツリ、と消えた。

それが天司であったサンダルフォンの記憶だ。
思い出した際は苦悩したものの、幼いながらに自分がいるならきっとルシフェルもいるだろうと期待していた。
だが、21歳になる今日迄見付かる気配なども感じられず、高校を卒業するあたりで半ば諦めていた。
あの世界程ではないにしろ、今の世界も充分広い。居たとしてもそう簡単に見付かる事など無い。
諦めるのは最早得意分野とも言えると自嘲し、それならばと今の人生を全うするしか無かった。
だからサンダルフォンは今日も今日とて自分の命を食いつなぐ為に仕事をして、金を稼ぐしかない。
自動ドアをくぐるとお決まりの店員のいらっしゃいませーと言う声が聞こえる。
昨日は助六だった。
たまには体力の付く肉類でも食べないとな、とカゴを持って水や明日の朝に食べるパン、夕食の弁当を入れていく。
麺類が並んだコーナーの、横の棚にあるデザートの列の中で気になる物が目に入る。
『新商品!有名店の珈琲を使ったゼリー』と女性店員が描いたであろう、可愛らしいポップに何となく惹かれたサンダルフォンはそのデザートをお試しで買おうかと手を伸ばす。
...が。

「「あ」」

同時に伸ばされた手に、思わず被る声。
一つしかない珈琲ゼリーだが、ここで奪い合う必要も無いだろうと相手を見ずに「どうぞ」と言うと急に腕を掴まれた。
存外強い力に一体なんだと顔を上げれば。

「...ルシフェル様?」

愛してやまない、かつて敬愛した人が同じようにカゴを持って立っていた。

サンダルフォン、か?」

昔と変わらない、優しい温かな春の陽気に吹く風のような声。
耳に残る穏やかさは心が凪いでく。思い出すのは研究所にあった様々な花々が咲き誇るあの庭園。
2人きりで過ごした小さくも、ささやかな幸せ。
愛しい人に漸く出会えた喜びに感極まって涙が溢れそうになる。
が、とは言え、コンビニのデザートコーナーに成人男性が2人、見つめ合って固まっている光景は何とも珍妙なので「お会計...しましょうか」と促すと、ルシフェルは目を細めて頷いた。

「私の家に来るかい?」

コンビニを出たルシフェルに問われ、控えめに行く事を答えれば彼は酷く嬉しそうに微笑んだ。
隣を歩くのは実に二千年以上前で、あの時もこうやって中庭に行くまでの間を歩いていたな、と思い出す。
だが今世はヒールを履いていないので、少し高めの位置あるルシフェルの横顔をちらりと見やる。
歩く度に揺れる銀糸の髪も、前を見る蒼い瞳も何ら変わりなく、それがまたサンダルフォンの胸を締め付けた。

サンダルフォン
「...っ、は、はい」

不意に呼ばれ、吃りながら返事をするとクスリと微笑まれる。
こちらを見る瞳の優しさに心臓が痛いくらいに音を立てていて、今にも口から飛び出しそうだ。

「先程買った菓子だが」
「はい」
「家に着いたら分けて食べよう」
「え、でも...ルシフェル様が買ったものですよ?」

金を出して購入したのはルシフェルだ。タダで貰う訳にはいかない。それを伝えると、彼は手を伸ばしてサンダルフォンの頬に触れた。

「折角君とこうしてまた会えたのだから、このきっかけを作ってくれた菓子を分け合いたいんだ」

嬉しそうに笑う顔にキュンと胸が高鳴る。
何故そんなに笑顔なのですか。
何故手を繋ぐのですか。
聞きたくても聞けない恥ずかしさが自分でももどかしいのに、それがどこか心地良い。

「...話す事も沢山あるし...、今日は寝れませんね」
「ああ。...明日は寝不足になりそうだ」

今日は眠るつもりなんかなかった。
朝方寝てしまったらバイトに遅刻するかもしれない。
無断で休んだら場合によってはクビになるかもしれない。
サンダルフォンはそれでも良かった。
困ったな、と言いながら全然困った様子の無いルシフェルに本当ですねと同じく困ったフリをして笑い返す。
握った手の温かさを振りほどくなんて出来なかったから。