ごみばこ

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1DKから始めましょう。その2

結局次の日遅刻寸前で起きた2人は、慌ただしく支度をするとそれぞれの職場へと出勤して行った。
休んでも構わないのではないだろうか、と天司長の時には考えられなかった体たらくな発言をするルシフェルの背中を押して外に出すと、夜にまたあのコンビニで会う約束を取り付けて無理矢理向かわせた。
チラチラこちらを振り返る彼に後ろ髪を引かれる思いで背を向けると、大急ぎで職場へと遅刻する趣旨の電話をする。
当然サンダルフォンは自宅に帰る時間も無かった為、前日と同じ服装で行かなければならず、気分の良いものではなかったが我慢するしかなかった。
息切れを起こしそうなくらいの全力疾走で駆け、ビル街の隙間にある小さなカフェに到着するとバクバクと煩い心臓を押さえて呼吸を整える。深呼吸を一つ。
少し前に別れたばかりなのにルシフェルに会いたい気持ちを切り替えてドアを開ければ上部にあるベルがカランコロンと音を立てた。
おはようございます、と形式的な挨拶と遅刻の謝罪を店長に言うと、バックルームに入って走って汗だくになったTシャツを脱いでハンガーに掛ける。本当は洗いたいが、夜にまたルシフェル宅に行くだろうしその時に洗えばいいだろう。

サンダルフォンさん、寝癖ついてます!」

出勤早々、着替えていると白縹色の髪の少女がバックルームに入るなり叫んだ。

「...ルリア、君な...着替えてる所に入るなんてナンセンスだと思わないか?」

ズボンを先に穿いていて良かったと思う。白いシャツに腕を通したばかりで前面の肌が思いっきり見えている。ルリアと呼ばれた少女は手で顔を隠して「はわわ」と言っているが、指の隙間から見ているのが丸分かりだ。
空の世界に同じ名前の少女がいたが、生憎こちらの世界での蒼の少女は別人らしく、記憶が無い。

「入ってきた時に髪が跳ねてるから気になっちゃいまして...」

ボタンを閉めながら鏡で自分の姿を確認すれば、確かに左の横髪が外に跳ねている。
そういえば、と思い出す。
ルシフェルの家は凡そ広いとは言い難かった。1DKのこじんまりとしたアパートに住んでいて、中は片付けが苦手なのか物が乱雑に置かれていた。
彼の名誉の為に言うが汚部屋では無く、ただただ物の集まりにまとまりがないだけだ。
天司を統べていた時とは異なり、あまりにも人間らしすぎる部屋に思わず笑みが漏れる。
「少し散らかっているが」と案内されて、テーブルを挟んで対面で座っていたら、隣に来るようにとルシフェルに誘われた。距離の近さに緊張しつつも肩を並べて座り、買った物を食べながら今まで生きてきた人生の話をお互いに話し合った。
この世界に来る前の、空の世界での事も。
遺産を全て破壊した事を伝えれば、彼は湖の水面が漂うが如く瞳を揺らめかせ、憂いを帯びた表情で「そうか」と返事した。
褒め言葉を貰えなかった事に多少の落胆はあったものの、過ぎた出来事だからだろうと納得する。
会話を始めた時間が時間なだけにたった数時間しか話していなかったが、いつの間にか寝落ちていたらしく、起きた時にはルシフェルの肩に頭を乗せて眠りこけていた。
恐らくその時についたであろうそれに寝癖直しのスプレーを鞄から取り出してサッとつけていく。

「これでどうかな」
「完璧ですっ!」

サムズアップをするルリアにフッと口角を上げ「それでは行こうか」と促すと、白縹色の少女は元気よく返事をする。

...が、ホールに出た瞬間、今まで見た事がないくらいの人数で席が埋まっていた。ビル街にある小さなカフェなので平日は疎らだし、休日だからといって満席など一度だってない。
なのに、今は席待ちしている人すらいる始末だ。
唖然とするサンダルフォンにルリアは内緒話のように小声で「近くに新しいレストランが来たみたいです」と告げる。

「...レストラン?」
「えっと、paradisoっていうイタリアンレストランです!」
「成程」

トレーとメニューを小脇に抱えると興味無さげに店内を見渡す。
確かに来ているのは女性客ばかりだ。しかも口々にあれが美味しかったこれが美味しかったと料理の感想や店員の男の外見の話ばかりが聞こえる。
種類豊富に置いている訳では無いが、ここだって充分に料理は美味しい。珈琲だって好みの味だ。
キリマンジャロ系からマンデリン、ブラジルサントスにコピ・ルアクまである。
ここに面接に来たのだって珈琲が美味しかったからだ。それなのに。
取り敢えず頼んだであろう珈琲が、テーブルの上に置かれたまま冷めていく様子にサンダルフォンは腹立たしく思う。

「サ、サンダルフォンさん、皺!皺が寄ってます!」
「...わかってる」

無意識に険しい顔になっていたらしく、ルリアに小声で注意されて大きく溜め息をついた。
早くルシフェル様に会いたい。
珈琲の良さが分かるあの人だったらこんな事にはならないだろうと生まれて初めて一分一秒でも時間が過ぎて欲しいと願った。

その後も止まらない客足に目が回る忙しさだった。
勤め始めてから初の出来事なので喜ばしいが、如何せん雑談するのに立ち寄った感が否めず、中途半端に残された珈琲と洋菓子に心がモヤモヤとしてしまう。
ナンセンスだ。これでは金の無駄になるだろう、と漸く人気が引いた店内を見渡してから食器を洗っていると、ルリアもトレーに食器を乗せてカウンター内に入ってくる。

「今日は常連さん入れなかったですね...」
「そうだな。だからといって毎日入れないわけじゃない」
「そう...そうですよねっ」

へにゃりと眉を下げて自分に言い聞かせる様に納得しているルリアがキュッと口を横に引き結ぶ。
いつも来店する常連が入れないのが分かると今日はやめておく、と去っていったのが僅かながらにも堪えたらしい。
相変わらず誰にでも優しいものだと感心する。
だが、かつてのサンダルフォンも幾度となく彼女の言葉に救われたし、彼女の笑顔を見て嫌な気分になる人間などいない。
「明日はみんなが珈琲飲めますように」と歌いながらテーブルを拭いている姿が微笑ましく、自然と口角が弛んだ。
不意にカランコロンとドアが開いた音が鳴ったので、其方を向いたがいらっしゃいませという言葉は出なかった。

「な...っ、」

煌めく銀髪に透き通った空の目。
敬愛しているルシフェルに似ているのにどこか違う。
もしかして違うかもしれない。だけどそうかもしれない。拭い切れぬ違和感のまま、生唾を飲み込んでトレーとメニューを脇に抱えると「席にご案内します」と伝えてその男に近寄る。

「...そうか、ここにいたのか」

その一言と同時に掴まれる腕。
見下ろす蒼い瞳はどこまでも冷たく、まるで極寒の地の氷のようだ。
心臓がバクバクと鳴り響き、背筋が凍るようなこの感覚は間違いなくあの男だ。
何故ここに。何故。
どうして俺を覚えているのか。

「...るし、ふぁー...」

隠しきれない怯えと、カラカラになった喉から辛うじて出せた声にルシファーは鼻で笑うと「さっさと案内しろ」と腕を離した。
震える足を叱咤して奥の角の席まで案内すると、少し思案する仕草をしてから椅子に座る。

「...今、水とおしぼりをお持ちいたします」

努めて平静な声を出して去ろうとすると、背中に声を投げられた。
頭が痛い。一刻も早く離れたいのに。イライラする気持ちを抑えて振り向けば、ルシファーはメッセンジャーバックから白い封筒を取り出してサンダルフォンに差し出してきた。

「アレからお前と出会った事を聞いた。俺はどうでもいいが、アイツの機嫌を損ねて仕事に支障が出ると敵わん。受け取れ」

有無を言わせぬ強い眼光に封筒を受け取ると開けるよう促される。
封を切り、恐る恐る中身を見てみると何枚かの細長い紙が入っていた。何だこれは。
初めて見るそれに、どう反応していいか分からず固まったサンダルフォンにルシファーは一言「ビール券だ」と言ってきた。

「...ビール...券」
「そうだ。家の近くにコンビニがあるのだろう?そこでなら使用出来る。だが、忘れるな。券を使うには酒を1つ購入しないと全額現金になるからな」
「なんでこれを俺に」
「ただの気まぐれとでも言っておいてやろう。...さぁ、さっさと珈琲を持ってこい」

グズグズするなと付け足されて追い払われたサンダルフォンは、ビール券が入った封筒を片手にカウンターに戻り混乱した頭のまま湯沸かし始めた。

その後もルシファーは特に邪魔も嫌味も吐き出す事無く珈琲を静かに堪能し、帰り際も「釣りはいらん。そこの募金箱にでも入れておけ」とレジ横の黄色の透明なボックスを指差して店を出て行った。
ボックスに貼られたシールには『〇〇地区ワンちゃんネコちゃんわくわく運動会募金箱』と記されていて、動物が好きなのかと疑問を浮かべつつお釣りを入れていく。
ルシファーをまるで静かに進路を逸れる嵐だと思った。
人々を恐怖に陥れようかと出没したが、周りの心配を余所に素知らぬ顔をして明後日の方向に行く。
元々研究所にいた時から思考の読めない人間だったが、まさかこの世界でもそれをいかんなく発揮しているとは。ルリアに知り合いかどうか聞かれた際、上手く誤魔化せたかは分からないが、彼女は「どこかで見た事があります」とうーんうーんと唸りながら片付けをしていた。

夕方5時、夕勤シフトのメンバーと交代になったサンダルフォンは、手早く着替えて店を出てまだ日の高い空を見上げた。
珍しく早上がりだったのを今日程喜んだ事は無い。
ユニクロでTシャツを購入する時間があるからだ。
流石にルシフェルと会うのに汗をかいた前日と同じ服では行けない。
極度の潔癖症という訳ではないが、あの人の横にこの状態で並ぶのは余程の横着者だろうし、そんなのは自分で自分を殴り飛ばしたくなる。

サンダルフォンさーん!」

歩き出したサンダルフォンの背に元気な声がかかる。
振り向けば店の入口にルリアとお迎えに来たらしいグランがいた。
手を大きく振る少女に同じく手を上げて返すと2人は笑顔になった。

「またお休み明けに会いましょうね!」
「あ、そうだ、今度3人で遊び行こうよ」
「気が向いたらな」
「またそういう事言うんだから」

苦笑するグランと朗らかに笑うルリアに別れを告げて店へと向かう。
動きやすさを求めてるせいか、普段から飾り気の無いシンプルな服ばかり所持している。給料日前だしそこまで多くは買えない。
青い七分袖の薄手のTシャツを手に取り着替える分だけでもいいかと思索に耽るが、つい新商品のコーナーにぶら下がった黒の単色に左胸の部分に白い羽のマークがついたTシャツを見て思わず自分にぴったりだと感じ、それも合わせて合計2枚購入してしまった。
着替えたい趣旨を伝えればタグを切って余分に1枚袋を渡してくれた店員に感謝をしつつ、トイレの個室で前日のTシャツを脱ぐ。
壁側の棚に置かれた財布が視界に入ると余計な出費をしたと苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。1枚でよかったのに。何だって2枚も買ったんだ。
給料日まであと2週間近く。中に残った3000円でやりくりせねばならない事に溜め息しか出なかった。
余った時間で街を歩いて観光し、迎えた8時前。
約束したコンビニの近くに着くと店の外で携帯を片手に立っているルシフェルの姿が見えて一気に駆け出す。

ルシフェル様!」

なんて事だ。
彼の人を待たせてしまったのか、もっと早くに来るべきだったと無意識に舌打ちが零れる。
サンダルフォンの声に気付いたルシフェルがこちらを向き、そしてふわりと微笑む。
緩く弧を描く唇、細められた目は愛おしい者を見るそれで、春の朝日の様な眩しい笑みに心臓を鷲掴みにされそうになる。

「変わりないかな?」
「え?は、はい、バイトも順調です。...ああそうじゃなくて遅くなって申し訳ありません...」

ぜえはあと呼吸を整えつつ答えれば、ルシフェルはかぶりを振って柔らかな頭を撫でた。

「私もここに着いたのは先程だ。気に病む必要はない」
「でも、」
「昔は君が私を待っていてくれたからね、今は私が待ちたいんだ」
「...ッ!」

カァッと顔が熱くなった。
甘すぎる言葉は煩いくらいに心臓を鳴り響かせ、喉はひくついて思ったように話せなくなる。
あの、その、と吃るサンダルフォンの頬を指の背でそっと撫でると「後は家で話そうか」と囁く。
甘く優しいルシフェルに死んでしまいそうだと思いつつも、辛うじてぶんぶんと首を振って頷けたのは頑張った方だとサンダルフォンは自分を褒めた。
財布の中身も寒いので、コンビニで買い物はせずに家路に向かう最中、「そういえば、」と口を開く。

「今日、バイト先にルシファーが来たんです」
「ああ。友に君と再開出来た事を伝えたからね」

ルシファーがアレから聞いた、と言っていたのはルシフェルの事だったのか、と納得した。
そうなると2人は同じ職場なのか?と疑問も残るが、会って2日目で根掘り葉掘り聞くのもはばかられたので心に留めておくだけにしようと頷く。

「でもアイツ、嫌味も何も言わなくてなんか、こう」
「研究所の時と違う?」
「そうなんですよ。なんか不気味で...おまけにビール券だ、なんて言って封筒寄越してくるし」

ルシファーの物真似なのか、腕を組んで見下ろす仕草をするサンダルフォンに苦笑するルシフェル

「君に会うなら手土産くらい必要だろうと引き出しをひっくり返していたからな。その時に以前贈答用だとかで貰ったビール券が出てきたからそれを渡したのだろうと思う」

サンダルフォンは言葉を失う。
あの人を人だと思わない冷血ド鬼畜研究者がそんな事をするとは思わなかったからだ。
どちらかと言えば「俺と話すだと?ならそれ相応の菓子折りを持ってこい」くらい言いそうなものなのに。顔に出ていたのかサンダルフォンの頬をするりと撫でると、ルシフェルは至極優しい表情で「あれで友もこの世界に馴染もうとしているのだ」と話すと目を伏せた。
過去の事を全て水に流したり、割り切るのはまだ勇気がいると思う。
だが、こうやってルシフェルやルシファーが前の世界と真逆の、穏やかで平和な世界に馴染もうとしている姿にサンダルフォンは誰も傷付かないのならいいんだと嬉しくなった。それでなのか、ついつい喫茶店に来たルシファーの態度をああだったこうだったと話していると、繋いでいた手の力が不意に強くなる。

ルシフェル様...?」
「...あまり私の前で友の話ばかりしないでくれ。妬いてしまうよ」
「はへっ?!」

へにゃりと眉を下げて微笑むルシフェルにボンッと顔から火が出たサンダルフォンは、ああもうずるいですルシフェル様!と胸中で叫びながら、唇を戦慄かせて「それは大変申し訳ござんした…」とおかしい日本語を発した。